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「フラクタル」に一つだけ足りないもの

フラクタル第1巻Blu-ray【数量限定生産版】「ねんどろいどぷち ネッサ」付それは「人間」の身体性への配慮です。
 いやあタイトル詐欺で申し訳ありません。本当はいろいろと足りないと思うのですが、魔法少女まどか☆マギカとは正反対に、4話を見終わってかなりがっかりしてしまったので、勢いに任せて書き殴ってみました。こちらの作品も鳴り物入りのオリジナルとして送り出されたわけですが、ラピュタやナディア等、過去の名作で見たような気がする表面的な装飾が、まず賛否両論になっていますね。一方でこれらを剥ぎ取った根っこの姿も、4話まで見てきてようやくはっきりとしてきたようです。
 どうもこの作品における対立構造は、「フラクタルシステムが中心となった仮想(拡張)現実社会(=アニメに代表される二次元文化に浸る人々)」と「フラクタルシステムを拒否して「真の自由」に生きるロストミレニアム達の現実社会(=一般人?)」であり、(正直作中で表現することに成功しているとは思えないのですが、便宜上)両者の立場を客観的に観察するクレインがどちらを選択するのか、はたまた新しい第三の道を提示できるのか、というところが、物語全体の主題となるようです。同じ文脈で、クレインを中心とした三角関係も、上記の対立構造を反復しています。すなわち、仮想現実であるネッサに対して、生身の女性であるフリュネがいるわけです。
 ...ですけどはっきり言ってこの主題、正直あんまりストレートには伝わってこないんですよね。初見だけでは心許ないので、一応もう1周して確認してしまいました。
 なぜそれが伝わってこないのか。前述の装飾にツッコミ所が多すぎる、というのもあるのですが、その最大の原因は「フラクタル」という作品において生身の人間の身体性があまりにも軽視されすぎているからだ、というのがこのエントリの主張です。
 とりあえず4話までこの作品を視て私が一番残念だったのは、主要人物の行動が支離滅裂に思えて、誰一人として感情移入させてくれる人間がいなかったことです。特に顕著だったのがフリュネで、いきなりビンタとは...クレインがあまりにもかわいそうすぎます。次週以降で謝ってくれればいいのですが...。と、この調子で、主要人物は誰も彼もが自己中心的で、相手がいることを考えながら行動しているようには見えませんでした。もちろん、グラニッツ一家の良心として大婆とサンコが配置されてはいるものの、彼女たちは逆に役割が特化されすぎていて、やはり感情移入させてくれず、単なるアリバイとしてしか機能していません。
 こんな共感できない人間達に対して、ネッサはとことん「萌える」キャラクターとして、オーソドックスなアニメの文法に忠実に、天真爛漫な様がこれでもかと描写されています。要するに、彼女は「アニメの萌えキャラ」の象徴なんですね。これが分かったとき、主要人物達がなぜこれほど自己中心的な人ばかりなのかも理解できました。彼らは二次元キャラに対立する存在としての、山本監督が考える生身の人間なのだということが。フリュネの行動の支離滅裂ぶりは、「現実の女の子は自分の感情優先で動くもので、相手の都合なんて二の次だ。あと、わざわざ自分の考えなんか逐一説明しない。」といったところなのでしょう。
 でも「フラクタル」を視ている視聴者からすれば、ネッサもフリュネもどちらもアニメの中の二次元キャラなのは変わらないわけで、どちらも「物語の中の登場人物」なのです。1人や2人ならまだしも、主人公を始めとしてほとんどのキャラクターが極端にデフォルメ化された「リアルな」自己中心性を示されては、物語のテーマにまで思いをはせることもできず、不満の声が多くなるのも当然のことです。
 それでは何か別の方法で、二次元世界内の二次元キャラと三次元キャラを描き分けられないでしょうか?私はこの作品に最も適しているのは、作中で生身の人間とされるキャラクターの身体性にもっと焦点を当てることだと思うのです。具体的には人間の「ぬくもり」ですとか「重さ」あるいは「におい」の描写を重ねます。というのも、私が1話を見て一番感じた違和感が、「なぜ普段ドッペルとばかり接していて、生身の人間と触れあった経験がほとんどないはずのクレインは、こんなにもフリュネを身近にして、冷静にエッチな気分になれるんだろう?」でした。現実社会では当たり前のことですが、人間は誰しも他者とは少しずつ異なっているものです。外見以外の身体的な特徴だけを挙げても、体温も代謝も体臭も異なります。だからこそ他人と手をつないだときに、「あたたかい/つめたい」「しっとりしている/サラサラしている」あるいは近づいただけでも「この人いい匂いがする/臭い」という感想が普通に出てくるのです。では、もし画像でしか他者と接したことがない人間が同じ体験を初めてしたら?その衝撃は如何ほどのものでしょうか。(分かりやすそうな例も考えましたが、下品なのでご想像にお任せします。後述する東氏の原案とも密接に関連しそうではあるのですが...)
 このようにいろいろと表現できる生身の人間の身体性ですが、この作品に限れば「におい」を重点的に描写すべきかと思います。というのも、フラクタルシステムの拡張現実はかなり高度な身体性まで再現できるようですから。拡張現実であるドッペルは既に見えて聞こえる存在ですし、ネッサはさらに触ることができるという特性まで獲得しています。「手を握ると暖かいでしょ」というネッサのセリフもありますので、「ぬくもり」までも表現できるようです。ですが、人間が有する五感の内、物理情報が担っている視覚、聴覚、触覚と違って、化学情報が担っている味覚と嗅覚は、機械が取り扱うのは一番苦手とするところなんですよね。「フラクタル」という作品世界において、ドッペルと生身の人間を隔てる境目は、「におい」と「味」を感じ、また再現できるか、というところにあるのです。
 これらのポイントが分かっていれば、何も露骨に感情移入を阻害するような性格のデフォルメを行わなくても、ちょっとした描写を追加していくだけで、仮想現実と生身のキャラクターは描き分けられるはずなのです。そういう意味で、3話でスープの味をダンスで表現するまでの流れは、ドッペルであるネッサと生身の人間の違いを際立たせるために、まさに最も重要なシーンでした。2人のほほえましいやりとりもあいまって、実際とても印象深く描写されていたと思います。同じように、1話の廃墟でフリュネに寄りかかられたときに「いいにおいがする」、周囲に死体が散らばっているさなかでは「これが...血のにおい!?」、あるいはエンリのパンツが話題になっている場面では、ちょっと無理矢理ですが「そんな臭い話には興味無いよ」という台詞にでもしておけば、それだけで簡単に生々しさを追加できたのではないでしょうか。
 なぜこれほど身体性にこだわるかといいますと、実は「フラクタル」という作品は、「東浩紀版はだかの太陽」(もしくはそれを下敷きにして「ヤマカン版ナディアその他」をかぶせたもの)であることが、ほぼ確定だと思うからです。まだ未読の方のためにちょっと説明しますと、「はだかの太陽」は、1992年に亡くなったSF界の巨匠アイザック・アシモフ著のロボットものミステリーの長編第二作で、名作の誉れ高い「鋼鉄都市」の続編にあたる作品です。地球人のベイリ刑事とロボット刑事ダニールのコンビが、ロボットが関連すると思われる殺人事件を調査するため、植民惑星ソラリアに派遣されて...というお話です。(今回調べてみて、驚いたことに絶版になっているではないですか!早川書房は何を考えているのでしょうか(怒)?といってもさすがに無い袖は振れないでしょうから、こういう作品こそ優先的に電子書籍化するべきでしょう)。
 事前情報無しに1話で描写されたクレインの生活とフラクタルシステムの説明を目にして、はるか昔にアシモフ大好きのSF少年だったこともあって、「これって、はだかの太陽だよなあ」と思っていたところ、ちょっと調べてみたらまさにどんぴしゃでびっくりしました。東氏は2010年の4月まで、文藝春秋社刊行の文芸月刊誌 文學界に「なんとなく、考える」という連載をもたれていたのですが、その第12回「アシモフについて(2009年7月号掲載)」で採り上げられている題材が、そのものズバリ「はだかの太陽」だったのです。2段落とちょっと長いですが、この作品の舞台となる植民惑星ソラリアについて東氏が紹介しているくだりを引用します。

 ソラリアは奇妙な惑星です。人口は2万人しかいません。そして全員が広大な領地を抱え、惑星全体に散らばって生きている。住民は研究者やクリエイターばかりで、経済はすべて二億台のロボットが支えています。家族は崩壊し、ソラリア人はすべてが実質的にひとり暮らしです。彼らは誕生直後から、両親と引き離されてロボットに囲まれてひとりで育ち、基本的にはだれとも直接に顔を合わすことがありません。
 ソラリア人の社交はすべて立体映像で行われており、集会などは存在しません。身体的な接触はタブーとされ、夫婦でさえ、生殖のためやむなく性行為を行うときにしか顔を合わせない。子供への愛情もない。逆に映像を介したコミュニケーションにおいてはきわめて開放的で、異性の前で全裸でもほとんど気にしない。ベイリ刑事は捜査のため何人かのソラリア人に会いますが、そのうちのひとりは現実の面会に耐えられず卒倒してしまう。いわば、ひきこもりばかりの惑星なのです。(文學界2009年7月号225-226頁)

 「フラクタル」を視ている方々、いかがでしょう?フラクタルシステムの設定原案として、そっくりそのままこの文章を渡したのでは?とまで思えてきませんか?アシモフが描くソラリアの「コミュニケーションと生殖を厭い、労働から解放された有閑階級の「ひきこもりの国」」について、東氏は「歴史の終わりを迎えた未来社会」であると表しています。
 東氏は、作中事件解決後のエピローグ近くのこんなセリフも引用しています。

「われわれはちょうどソラリアの裏返しです。ソラリア人はみなばらばらになって、一人ひとりが隔絶した孤立状態に逃げ込んでいる。そして、われわれはギャラクシイを拒否して、孤立状態に逃げ込んでいる(三四八頁)」「われわれはいまのわれわれの状態を変えられるんですよ。外に顔を向けて、外界に出ていこうじゃありませんか、そしたら我々には反乱なんて必要なくなるんです。(後略)(三五〇頁)」(頁は「はだかの太陽」ハヤカワ文庫版より)

 引用文中で「われわれ」と表現されているベイリ刑事が暮らす地球は、作中では圧倒的な科学力を誇る植民惑星国家の後塵を拝し、増えすぎた人口を養うため世界にわずかに点在する鋼鉄の超巨大集合住宅とも言える閉鎖空間(作中では「洞窟」とも表現されています)に無数の人間がひしめき合って暮らす後進国家として描かれています。そしてほとんどの人々は地球が唯一の宇宙の支配者であった時代を惜しむ「懐古主義者」で、植民惑星人達と、自分たちから仕事を奪ったロボット達を忌み嫌っています。こちらはフラクタルシステム=ソラリア人と対立する勢力としては、ロストミレニアムの連中とは近からず遠からず...全くそのままではありませんね。
 さてアシモフのこのシリーズでは、地球人と植民惑星人の両者に、心身症的な特性が付与されています。地球人は長く閉鎖空間で暮らしてきたため、誰もが広所恐怖症になっています。一方で、植民惑星人は「対人恐怖症」とも言えるもので、宇宙に進出していく過程で、生存に必要のない病原性のウィルスや菌、それらの媒介物を駆逐してしまったため、今では病原菌に対する免疫を失っており、雑菌の固まりである地球人とは、念入りな消毒を経なければ接触することを極度に恐れています(エンリが消毒!消毒!とことある毎に言っているのは、これが由来かもしれません)。
 はだかの太陽に登場するひきこもり社会の最重要キーワードも、やはりこの対人恐怖症です。仮想的なコミュニケーションに頼る度合いがさらに高まるに連れて対人恐怖が極度に進行した結果、植民惑星人同士であっても他者との接触そのものが恐怖の対象になってしまい、このような社会形成につながったとされています。アシモフがこのような社会の登場を予想したのはもう50年も前のことになりますが、特にきれい好きな日本人としてのひいき目もあるかもしれませんが、因果関係がはっきりとした非常に合理的な予想だと思いますし、実際に日本で現実に進行している社会現象を、既に一部説明してくれているとも思えます。
 アシモフはこのシリーズで対人接触がなくなった死にゆく社会を描くと同時に、それを乗り越えるための解答も提示しています。それが、ロボットによる無労働化に反発して、雑草のようにたくましく生きる地球人達です。このシリーズは長らく放置されていましたが、アシモフは晩年に「夜明けのロボット」と「ロボットと帝国」の続編を二作発表し、地球人達が再び銀河に進出し、衰退する植民惑星人達と入れ替わりで主導権を握っていく様を描いています。
 「フラクタル」に目を戻しますと、ソラリア人と地球人を分かつ対人接触の有無と、それが無くなった結果生まれてくる問題点について、この作品ではどれだけ配慮されているでしょうか。作中でここまでに提示されたフラクタルシステムの問題点は、本来は修理技術その他が失われてしまった文明の後退を押し出さなければならないはずなのに、単にバルーンの故障が進行してシステムが維持できなくなってきたという、表面的な部分しか描写されていません(あ、それと私たちがテレビ画面やPCの画面にのめり込んでいる様子を連想させるような洗脳場面もありましたね)。一方、ロストミレニアムの描写に至っては、あえてフラクタルシステム側との対立構造のバランスを保つために、人を殺しても何とも思わないテロリストの側面だけがむやみに強調されています。
 物語の根幹の下敷きにあった対立構造の最大のキーワードをないがしろにし、別の要因で無理矢理対立を演出しようとしたため、物語構造そのものが瓦解しそうになっている。「フラクタル」のテーマが真っ直ぐ伝わらなくなってしまった一番の原因は、ここにあるのではないかと思うのです。
 なぜこうなってしまったのか。これはもう中の人にしかわからないことですが、東氏の一連のツイートから想像するに、少なくとも東氏が提示した原案は、山本監督によって取捨選択されていることは確かなようです。それと、このテーマに基づいて冒険活劇をするのはやはりハードルが高かったのかな、とも思います。敢えてやるとするならば、「仮想現実における冒険」とは異なる「本物の実体験」の驚きその他を、クレインにもっと感じさせるべきではないでしょうか。例えば4話の三輪バイクで逃走するシーンでは、自転車とは比べものにならない疾風感と振動があるはずですが、クレインは全く無関心です。2話から3話にかけて三馬鹿トリオに攫われて空を運ばれているシーンでも、高所で覆いも無くつり下げられて飛行するという普通ではありえない体験をしながら、恐怖も寒さもジェットエンジンの騒音も(あるいは喜びでもいいですが)訴えることなく、けろっとしたものです。3話から4話にかけて大殺戮のまっただ中に遭遇しますが、ちょっと嘔吐する描写はあるものの、あとは「人が死んでるのをみるのは初めてだ+視覚情報」の一言で終わり。これらの体験は、クレインにとってフラクタルターミナルで投影される仮想ディスプレイを見ているのと、どこが違うのでしょう?それが視聴者に伝わってこない限り、冒険活劇としては失敗なのではないでしょうか。
 と、いろいろツッコミを入れてみましたが、もちろんこれが全部マトリックスみたいな仮想現実世界内での出来事で、身体性なんて無いのも当然だった、というどんでん返しもまだまだあり得ます。ネッサが何故触れるのかという謎に対しては、一番ストレートな解答ですしね。先が予想できないオリジナルはやはり楽しい、ということで、ヤマカン始めスタッフの方々は腐らずにこれからも果敢に挑戦していって欲しいところです。
 最後に、仮想現実vs現実世界の対立にヤマカンがどういう解答を提示してくるのか、つたない予想をしてみます。ここまででやっぱり印象に残っているのは3話の味ダンスのシークエンスですので、「相手が仮想現実だって努力すればわかり合えるんだ」的な、両者融合みんな仲良し良かったねエンドがくるのかなあ、と現時点では思っているのですが、皆様のご意見はいかがでしょうか?(余談になりますが、東氏は上に引用した記事中で、人間の性欲が「はだかの太陽」で重要な位置づけをされていることに言及しています。こちらの作品のオチでも使われるかは分かりませんが、エンリがエッチ!エッチ!とことある毎に言っているのはこれ由来かもしれません)。